新しい価値観

わたしが過ごした笠原小

埼玉県東部に位置する宮代町には、笠原小学校というちょっと変わった建物の小学校があります。

わたしはそこで小学校時代のほとんどを過ごしました。

その頃ちょっと変わった建物の学校は、ちょっと変わった教育をしていました。

どうしてそんな教育だったのか、なぜ変わってしまったのかを知りたくて、先日宮代町の教育委員会へお邪魔したのですが、当時の教育について知っているかたが一人もいなくてショックでした。

笠原小学校にも問い合わせましたが、当時の教育に関する記録は残っていないそうです。

自分が受けた教育がなかったように薄れていくことが寂しい…。

そこで友人たちの協力を得ながら、当時のことをまとめてみました。

この記事を読んで「自分も通っていたよ!そうそうそんなことあったよね」「こんなこともしていたんじゃないかな」「この部分はこうだったかも」などがありましたら、ぜひサイト下の問い合わせ欄から情報をお寄せください。追記・訂正しながらまとめていきたいと思っています。

始まりはプレハブ校舎

1981年(昭和56年)4月1日、笠原小学校創立。

校舎の建設が間に合わなかったために簡易的なプレハブの校舎で過ごし、年度の途中で新校舎に引っ越しました。

校舎に使うステンドグラスは、一人一人が絵を描きました。

わたしは象に乗っている自分を描きました。今も教室にはめ込まれています。

竜宮城のような校舎と広い庭

「学校はまち」「教室はすまい」「学校は思い出」の三つのコンセプトより造られた特色ある施設を活用し、子どもたちが、豊かな教育環境に主体的に関わり、価値ある体験活動を通して、いきいきとその感性や個性を伸ばすことのできる学びを保障し、楽しく夢のある学校づくりを目指しています。笠原小学校より文章、画像をお借りしました

笠原小学校校内

校舎は朱色のコンクリートでできています。

廊下には壁がなくて、中と外がつながっています。

校舎内も校庭も裸足で過ごすので、足洗い場が設置されてあり足を洗って校舎に入ります。

夏はひんやりして気持ちがいいのですが、寒くなってくると早く上履きを履きたいと思うタイプの子でした(上履きを履いてもいい期間が決まっていましたが、一年中裸足の子もいます)。

一年生の教室には畳コーナーとトイレがあり、他の学年の教室には談話室という小さなコーナーがあって、座って話ができる場所があります。

休み時間に、大階段でじゃんけんグリコをよくしました。

大階段

周囲には緑がいっぱいです。校庭以外に、中庭、裏庭もあります。

中庭のじゃぶじゃぶ池では水遊びができ、裏庭は小さな山も畑もあり、かくれんぼも鬼ごっこも楽しかった。

笠原小学校の建った場所は元々沼だったので、当時は地盤沈下がすごかったことを思い出しました。

どんどん土地が沈んでいくので、笠原小はいつか崩れるんじゃないかと心配でした。音楽室に続く廊下の下なんて穴になっていましたから。

今、地盤沈下は見られないので、工事で地盤の補強をしたものと思われます。

当時の教育

建物と裸足教育の撮影にテレビや雑誌の取材が来ていたけれど、授業を見学にくる先生の数も多かったです。

漢字の確認テストのようなものはありましたが、ワークも大きなテストもありませんでした。

宿題も少なくて下校後はもう一度学校に行って遊んだり、進修館で鬼ごっこやかくれんぼをしました。

国語は教科書を使うことも多かったけれど、それ以外の教科ではあまり使いませんでした。

算数は確か、文部省や埼玉県の研究指定を受けて特別な授業をしていました。

先生が与えた問題についてそれぞれ考えたことをわら半紙に書きこみます。先生は4~5人の子に声をかけて、小さな黒板に考えを書くように促します。

前に出て自分の意見を発表し、それについてどう思うかをみんなで話し合うというのが基本のスタイル。今でいうアクティブラーニングですね。

色んな子の意見の中でどれが一番良かったかを決めるのではなく「色んな考えがあって面白いね」「どの意見も正解だよね」と終わるのです。

だからみんな発言したいし、前に出て発表したい。

全体的に、やりたいという意欲が強かった印象が残っています。

通知表は「たいへんできる」「よくできる」「がんばろう」(通知表が残っている人がいたら情報下さい)だったと思います。

数字で表す評価ではないので、周囲との差も表れにくかったと思います。

校舎も教育も伸び伸びしていて心地良かったです。

行事(遠足・笠原まつり)

遠足は栃木県の唐沢山と太平山を交互に登山しました。

記憶では学年で登ったときと、異年齢で登った両方の記憶があります。

学年が上がると登山コースがきつくなった記憶もある…。縦割りではなくて同学年のグループだったのかなぁ?

電車で最寄り駅まで移動して徒歩。途中で栗の実を拾ったりしました。

チェックポイントに立っている先生を経由しながら山の頂上を目指してを登り、お昼ご飯を食べたら山を下りて電車で学校まで帰りました。

ある年、わたしの班ともう一班の二班が、下山する方向を間違えて反対方向に下りてしまったことがありました。

すでにヘトヘトなのに、もう一度登るって…と半分笑って、半分泣きながら歩きました。

きっと、待っていた先生たちも気が気じゃなかったのだろうなぁ。

かなり遅くなってやっとたどり着いた駅で先生たちは「頑張ったね」と笑顔だったのを覚えています。

失敗してもいい、自分たちの行動に責任をもつ、ということを先生たちに見守られながら学んでいたのだと思います。

笠原まつり(当初は収穫祭)も何をやるか、どうやるかを子どもたちに任せてくれました。

そういえば、わたしは実行委員長になったかもしれない。

中学生以降役職のつくものが苦手で避けるようになっていくのだけれど(これについてはまた別記事で)、笠原小学校にいたときには「やりたい」気持ちが爆発していたように感じます。

見守られているって前に進むパワーになるのですね。

子どもを信じて見守るって、簡単なようで難しいことですよね。当時の先生方に、心から感謝いたします。

やりたい気持ちと興味が広がる居場所や教育を

もちろん昭和なので、時には怒られて廊下に立たされている子もいました。みんなに迷惑をかけたら怒られました。

でも、一人一人の気持ちも大切にしてくれました。

記事を書こうと思ったのは、こんな教育が宮代であったんだということを振り返りながら、今の時代に合わせた新しい教育の形を創りたいと思っているからです。

子どもたちの成長に本当に必要なことってなんだろう。

子どもたち自身が望んでいることってなんだろう。

わたしたち大人が、本当は子どもたちにどんなふうに育ってほしいと願っているのかを、改めて一から考えたいのです。

「みんなの学校」の舞台になった大空小学校も、学校の「当たり前」をやめた麴町中学校も、「対話する学校」の京都市立葵小学校も素敵な教育を始めています。

宮代の教育も、未来に向けて宮代らしさを出しながら変化させていきませんか。

笠原小学校に関するサイト

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